団塊世代・オヤジ起業のプロフィール
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パソコン修理・データ復旧:pcQ援隊
茨城県のつくば・土浦・取手・守谷・牛久
龍ヶ崎・つくばみらい
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2008年7月
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ホームページによる集客術セミナー開催・牛久市商工会
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2008年7月
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磐梯高原ウルトラマラソン62キロ完走
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2008年4月
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アントレフェア・トークセッション出場・東京ビッグサイト
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2007年7月
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ホームページによる集客術セミナー講師・坂東市商工会
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2007年7月
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経営者の健康セミナー講師・牛久市倫理法人会
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2007年7月
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磐梯高原ウルトラマラソン60キロ完走
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2005年9月
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新オフィスオープン(移転)
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2004年8月
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牛久市健康づくり推進協議会委員
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2003年8月
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pcQ援隊 業務開始
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2003年6月
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RURI株式会社設立
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2003年6月
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ソニー株式会社 早期退社(30年間勤務)
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1973年5月
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ソニー株式会社 入社
(オイルショック、為替変動相場制の年です。)
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1973年3月
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千代田テレビ技術学校 退任
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1970年5月
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千代田テレビ技術学校 講師
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1970年3月
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法政大学短期大学部(夜間)電子工学科 卒業
(万博開催、日航よど号事件))
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1949年7月
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鹿児島県奄美大島に生まれる。
(湯川秀樹、ノーベル賞受賞の年)
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7)ウルトラマラソン60キロ完走
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生まれつき・スポーツは、水泳を除いて苦手でした。
徒競走はいつもビリでスポーツが嫌いな少年でした。
このようにスポーツが大の苦手で58歳の私が
ウルトラマラソンにチャレンジすることになりました。
きっかけは、下腹ダイエットで始めたジョギングです。
体重が落ちる・体脂肪が低下する楽しみを
味わっているうちに、「マラソン完走できそう!」と
私の脳ミソがマラソンへのチャレンジを企てたのです。
普通、ウルトラマラソンへのチャレンジは、ステップがあり
10キロマラソン 完走
ハーフマラソン・20キロ 完走
フルマラソン・42.195キロ 完走
ウルトラマラソン(42.195キロより長い距離)へチャレンジと
ステップを積み重ねていきます。
非常識なチャレンジで、一切のマラソン完走経験なし
しかも、たった3ヶ月間の練習で、
2006年10月14日に新潟県上越市で開催された
えちご・くびき野の50キロマラソンへ参加しました。
残念ながらリタイアしました。しかし約38キロ・6時間走れたのです。
途中リタイアから9ヶ月後の2007年7月
磐梯・猪苗代ウルトラマラソン・60キロを
2回目のウルトラマラソン・チャレンジで完走することができました。
マラソン完走は、会社経営に非常に参考になります。
マラソンは、肉体を支配するのが脳では無く、筋肉であることを
実感・体験でるスポーツです。。
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6)起業に向けて
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30年間のサラリーマン生活において、
いつかサラリーマンをやめて独立したいと、
いつも想っていました。
東京都商工会連合会が平成11年8月に国分寺で開催した
「創業支援セミナー」に参加したのが具体的な行動の始まりでした。
ソニーは、独立する環境が非常に良くて
商品企画、設計製造、原価管理、お客様対応と
独立に必要な多くの内容を
サラリーマン生活で学ぶことが出来ました。
唯一体験していないのが営業でした。
そのせいで、独立後に一番勉強しているのが、
マーケティング&広告、営業です。
会社経営におけるキャッシュフローを
自分自身で管理していますが、
これはソニー時代に学んだことが大いに役立っています。
もちろん経理の専門家ではありませんので
仕分け、記帳はプロの方にアウトソーシングしています。
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5)転機となる決断
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最初の決断は、高校進学です。
貧乏であったにもかかわらず、
地元・奄美大島の高校でなく、
400キロも離れた鹿児島の高校へ進学しました。
しかしこの選択は、
今まで環境とまるで異なる環境に身をおくことで
私のいままでの生き方をリセットすることが出来ました。
このリセットが効いて、勝ち組経験で高校を卒業することが出来ました。
この体験から無理してレベルの高い高校に進学するより
レベルの低い高校であっても、勝組が出来ることの方が
大切であることを理解しました。
2回目の決断は、
専門学校の講師を止めてソニーに入社したことです。
中途採用の試験を5社程受けました。
試験の結果は、5社全て合格できました。
一番気に入った、ソニーへ入社することを決めました。
このことが私の人生のほとんどを決定してしまったと言っても
過言ではありません。
3回目の決断は、
もちろん2003年6月のソニー退社と8月の起業で、
今年は、3年が経過して5年目に入りました。
もちろん、未だ結論は出ていませんが、サラリーマン時代よりも
楽しい毎日であることは間違いありません。
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4)髭のサラリーマン
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起業後に出会う多くの方から
「退職して髭をはやしたの?」と良く聞かれます。
私が髭をはやした時期は、ソニーへ入社後約5年のときです。
最初、上司から何度となく髭を剃るよう進められました。
そこで私は、上司に髭を剃れと言われないようにするには、
どうすれば良いかと考えました。
考え抜いた結論は、
「他の人よりいつも10%程余分に仕事しよう!」
と決心した事です。
具体的には、他人より2時間程早く出社し、
仕事の開始時間を早くすることを退職までの25年間続けました。
その結果、髭は、
仕事を楽しく前向きにやる原動力へと進化しました。
そのかいあって25年間、一度も剃ることなく、
髭のサラリーマン生活を過ごすことが出来ました
しかし、本当に一番偉いのは、
髭のサラリーマンを許してくれた
ソニー(盛田さん、井深さん)の社風とカルチャーです。
いまでも感謝!! 感謝!! です。
私のような性格の人間が
もしソニー以外の他の会社に入社していたらと、
考えただけで人生、真っ暗です。
取引先、民間会社は多少問題ないとしても、
一番大変なのは、官庁への訪問、会議への出席のときで
まわりの関係者は、私の容姿「髭のサラリーマン」に
いつもビックリしてしまいました。
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3)ヒッチハイク
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1960年代?に逃亡者なるドラマがあり
刑事の追跡を最後の土壇場で振り切って
逃亡に成功するストーリーの繰り返しでした。
この逃亡シーンの最後に
よくヒッチハイクのシーンがありました。
高校時代を鹿児島で過ごしましたが、
無線通信士、無線技術士の試験が熊本であり、
鹿児島と熊本間を年に数回以上往復していました。
いつの日からか汽車(有料)に乗らず
ヒッチハイク(無料)で往復するようになりました。
私が始めた鹿児島と熊本のヒッチハイクは、
親からもらう交通費が小遣いに化けるメリットがあり
瞬く間に高校の仲間の間で流行ってしまいました。
たまりかねて、学校からヒッチハイクの禁止令を
張り出されてしまいました
高校1年の夏休みに、高校の助手の先生と二人で
熊本、福岡、大分、宮崎、鹿児島のコースを
約1週間程かけてヒッチハイクをしたことも思い出です。
更に短期大学に進学して神奈川県川崎にいたときも
大学1年の夏休みに川崎を出発して
北海道まで往復するヒッチハイクをしました。
このヒッチハイクで多くのすごく親切な方に出会い、
車の同乗だけでなく、自宅へ招待して食事、
お風呂のおもてなしを受けたことも何度かありました。
(大変お世話になりありがとうございました。)
*ヒッチハイク:手を上げて、通行中の車に無料で乗せてもらう。
*高校は、当時(昭和43年)鹿児島県谷山市(当時)にあった
鹿児島電子工業高校です。
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2)ファッション・音楽
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2006年1月にNHKで放送された「エルビスプレスリー特集」を見て
よみがえった記憶を書きます。
「ツイスト」が流行っていた中学生の頃
この「ツイストを見るだけでは飽き足らず
遂に自分自身、友達の家などでレコードをかけて
友達と一緒に踊り、快感を味わってしまいました。
更に、よせばいいのに今で言う「洋服のリフォーム屋」さんに
頼んで、学生服のズボンをラッパ・ズボンに
リフォームしてしまいました。
いまにして思うと「エルビスプレスリー」の影響による
ラッパ・ズボンだったのですね!
他に、ギターも「禁じられた遊び」を何回も練習したが
素質がないので、弾けるようになれませんでした。
最初に買ったレコードが橋幸夫の「恋をするなら」で
母親は、息子が急に不良少年になったと感じたのか
ショックを受けていました。
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1)ラジオ少年
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小学校の6年から中学にかけて、理科や科学が大好きで、
いつのまにかラジオを自作することに目覚め
必要な部品を奄美大島から東京の秋葉原の
お店によく注文していました。
現在のような宅配便も無く、注文した部品は、
注文から1ヶ月程かかって届くのですが、
それが待ちどうしくて、
郵便が配達される時間帯に
何回も確認した記憶があります。
一月遅れで届く「初歩のラジオ」を読んでは
ラジオ製作のアイデアを絞る少年時代でした。
ラジオ製作の延長でアマチュア無線に熱中したこともありました。
就職して少し余裕がでると、少年時代の夢だった、
アマチュア無線用の鉄塔を建て、
下手な英語で海外との交信に夢中になった時もありました。
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