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ネット検索で「RURI」に来て頂き、
中小企業向けホームページ制作と |
2012年8月 |
龍ヶ崎市・社会福祉協議会主催の |
2012年1月 |
第60回 勝田マラソン |
2012年1月 |
正月3日のマラソン練習 |
2011年11月 |
鹿児島県 桜島一周 マラソン練習 |
2011年4月 |
知多半島一周ウルトラ遠足 |
2011年1月 |
第59回 勝田マラソン |
2011年1月 |
正月3日のマラソン練習 |
2010年11月 |
創業体験セミナー・古河市商工会 |
2010年10月 |
えちご・くびき野 ウルトラマラソン |
2010年9月 |
龍ヶ崎市立 長山中学校 |
2010年7月 |
磐梯・猪苗代ウルトラマラソン |
2010年7月 |
創業体験セミナー・古河市商工会 |
2010年5月 |
茨城県立 牛久高等学校 |
2010年2月 |
富山県南砺市商工会青年部福光支部 主催の講演会 |
2010年1月 |
正月3日のマラソン練習 |
2009年11月 |
つくばマラソン |
2009年10月 |
奄美市・金久中学校(奄美大島)をスタート |
2008年12月 |
SMAPの稲垣吾郎さんが手紙を朗読する |
2008年10月 |
えちご・くびき野 ウルトラマラソン |
2008年7月 |
ホームページによる集客術セミナー・牛久市商工会 |
2008年7月 |
磐梯・猪苗代ウルトラマラソン |
2008年4月 |
アントレフェア・トークセッションへ出演 |
2007年7月 |
ホームページによる集客術セミナー・坂東市商工会 |
2007年7月 |
経営者の為の健康セミナー・牛久市倫理法人会 |
2007年7月 |
磐梯・猪苗代ウルトラマラソン |
2004年8月 |
牛久市健康づくり推進協議会委員 |
2003年7月 |
RURI株式会社設立 |
2003年6月 |
ソニー株式会社 早期退社(53歳 30年間勤務) |
1976年12月 |
マイホーム取得 |
1973年5月 |
ソニー株式会社 入社 |
1973年3月 |
千代田テレビ技術学校 退任 |
1970年5月 |
千代田テレビ技術学校 講師 |
1970年3月 |
法政大学短期大学部(夜間)電子工学科 卒業 |
1968年3月 |
鹿児島電子工業高校 卒業 |
1949年7月 |
鹿児島県 奄美大島に生まれる。 |
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生まれつき・スポーツは、水泳を除いて苦手で
徒競走はいつもビリでスポーツが嫌いな少年でした。
そんなスポーツ苦手人間が
突然、57歳のとき、ウルトラマラソンにチャレンジします。
きっかけは、下腹ダイエットで始めた
有酸素運度運のジョギングです。
体重が落ちる・体脂肪が低下する楽しみを
味わっているうちに、「マラソン完走できそう!」と
どうせやるなら「ウルトラマラソン完走」と
私の脳ミソのスイッチが入ったのです。
ウルトラマラソンにチャレンジするには、
普通は、次のようなステップがあり
1、10キロマラソン 完走
2、ハーフマラソン・20キロ 完走
3、フルマラソン・42.195キロ 完走
4、ウルトラマラソン(42.195キロより長い距離)へ
チャレンジと実績を積み重ねていきます。
私の場合、非常識で無茶なチャレンジで、
中学・高校の体育のマラソンを除くと、
一切のマラソン完走経験なし
しかも、たった3ヶ月の短い練習期間なのに、
新潟県上越市で2006年10月14日に開催された
えちご・くびき野 ウルトラマラソン 50キロの部へ参加。
残念ながら結果は、途中リタイアです。
しかし、約38キロ地点まで、6時間も走れたのです。
途中リタイアから9ヶ月後の2007年7月
磐梯・猪苗代ウルトラマラソン 60キロに挑戦し
練習開始からわずか1年の短い期間で
2回目にして、最初のウルトラマラソン完走です。
2008年7月・磐梯・猪苗代ウルトラマラソン 62キロを
33度の炎天下・2回目の完走が出来ました。
2008年10月・えちご・くびき野 100kmマラソン
50キロの部へ再挑戦し、6時間37分で完走。
ウルトラマラソンは、肉体を支配するのが脳で無く、
筋肉であることを実感・体験できるスポーツです。
当日の天気、自分の体のコンディションなど複雑に
要素が変化・影響し合い計画の通りにならない事が
会社経営に非常に参考になります。
30年間のサラリーマン生活において、
いつかサラリーマンをやめて独立したいと、
想っていました。
起業に向けた最初の行動は
東京都商工会連合会が平成11年(1999年)8月に国分寺で開催した
「創業支援セミナー」への参加です。
これが、2003年のソニー退職、会社設立へとつながります。
現在では、自分自身が創業体験セミナーその他のセミナーを
開催していますが、今となっては懐かしい思い出です。
私が在籍した時代のソニーは、
起業に関する環境が非常に良くて
商品企画、設計製造、原価管理、お客様対応と
起業に必要な多くの内容を
サラリーマン生活で学ぶことが出来ました。
唯一経験していないのが営業です。
そのせいで、起業後に一番苦労し勉強しているのが、
マーケティング&広告、営業、接客です。
キャッシュフロー経営に重点をおき
自分自身でキャッシュフローを管理しています。
これはソニー時代に学んだことが大いに役立っています。
もちろん経理の専門家ではありませんので
仕分け、記帳、税務はプロの方にお願いしています。
最初の決断 :高校進学
貧乏であったにもかかわらず、
地元・奄美大島の高校でなく、
400キロも離れた鹿児島の高校へ進学しました。
この決断の実現へ向けて、両親、特に母親を説得し、
最終的に両親の同意を得ることができました。
家庭の経済状況を考慮すると、両親にとって厳しい選択でした。
中学卒業と同時に自宅を離れ、
今までと、まるで異なる環境に身を置いたことで
気付いた時は、過去を断ち、生き方をリセットしていました。
更に、無理してレベルの高い高校に進学するより
レベルの低い高校であっても、トップグループに属することで
自分が大きく成長できる体験をしました。
この満足できる高校生活は、小さな成功体験の第1歩となりました。
2回目の決断 :ソニー入社
当時、専門学校の講師をしており、
卒業生の十数名がソニーへ入社するのをサポート
続いて自分自身が数ヶ月遅れでソニーへ入りました。
ソニー入社の前、中途採用の試験を5社程受けました。
試験の結果は、5社全て合格できました。
一番気に入った、ソニーへ入社することを決めました。
このことが私の人生のほとんどを決定してしまったと言っても
過言ではありません。
私の性格の1個は、自分本来の生まれつきのものです。
もう1個は、サラリーマンとしてソニーで鍛えられた性格で
時には、自身で相反する2個の性格があります。
3回目の決断 :起業
もちろん2003年6月のソニー退社と7月からの起業です。
2013年7月に、10周年を迎え、遂に11年目が始まりました。
最初の頃の売り上げの少ない非常に苦しい時期を除くと
年を重ねる毎に、楽しさが増して行く起業後の人生です。
起業後に出会う多くの方から
「退職して髭をはやしたの?」と良く聞かれます。
髭をはやした時期は、ソニーへ入社まもない新入社員時代です。
最初、上司から何度となく髭を剃るよう進められました。
そこで私は、上司に髭を剃れと言われないようにするには、
どうすれば良いかを考えたのです。
考え抜いた結論は、
「他の人よりいつも10%程、余分に仕事しよう!」と決心し
具体的な行動は、他人より1〜2時間程早く出社し、
仕事の開始時間を他人より早くすることを
退職までの25年間続けました。
その結果、髭を剃るまいとの考えが
仕事を楽しく前向きにやる原動力に変化しました。
そのかいあって25年間、一度も剃ることなく、
髭のサラリーマン生活を過ごせたのです。
しかし、本当に一番偉いのは、
髭のサラリーマンを許してくれた
ソニー(盛田さん、井深さん)の社風とカルチャーです。
いまでも感謝!! 感謝!! です。
自分のような性格の人間が
もしソニー以外の他の会社に入社していたら
考えただけで人生、真っ暗です。
取引先など民間会社においては、余り問題ないとしても
一番大変なのは、官庁への訪問や官庁業界団体の会議出席で
まわりの関係者は、私の容姿「髭のサラリーマン」に
いつもビックリしてしまいました。
1960年代?に逃亡者なるテレビドラマがあり
刑事の追跡を最後の土壇場で振り切って
逃亡に成功するストーリーの繰り返しでした。
この逃亡シーンの最後に
よくヒッチハイクのシーンがありました。
高校時代を鹿児島で過ごしましたが、
無線通信士、無線技術士の試験が熊本であり、
鹿児島と熊本間を年に数回以上往復していました。
いつの日からか汽車(有料)に乗らず
ヒッチハイク(無料)で往復するようになりました。
私が始めた鹿児島と熊本のヒッチハイクは、
親からもらう交通費が小遣いに化けるメリットがあり
瞬く間に高校の仲間の間で流行ってしまいました。
たまりかねて、学校からヒッチハイクの禁止令を
張り出されてしまいました。
高校1年の夏休みに、高校の助手の先生と二人で
熊本、福岡、大分、宮崎、鹿児島のコースを
約1週間程かけてヒッチハイクをしたことも思い出です。
更に短期大学に進学して神奈川県川崎にいたときも
大学1年の夏休みに川崎を出発して
北海道まで往復するヒッチハイクをしました。
このヒッチハイクで多くのすごく親切な方に出会い、
車の同乗だけでなく、自宅へ招待して食事、
お風呂のおもてなしを受けたことも何度かありました。
大変お世話になりありがとうございました。
*ヒッチハイク:手を上げ、通行中の車に無料で乗せてもらう。
*高校は、当時(昭和43年)鹿児島県谷山市(当時)にあった
鹿児島電子工業高校(現在の鹿児島情報高校の前身)です。
2006年1月にNHKで放送された「エルビスプレスリー特集」を
見て、よみがえった記憶を書きます。
「ツイスト」が流行っていた中学生の頃
この「ツイストを見るだけでは飽き足らず
遂に自分自身、友達の家などでレコードをかけて
友達と一緒に踊り、快感を味わってしまいました。
更に、よせばいいのに今で言う「洋服のリフォーム屋」さんに
頼んで、学生服のズボンをラッパ・ズボンに
リフォームしました。
いまにして思うと「エルビスプレスリー」の影響による
ラッパ・ズボンだったのですね!
他に、ギターで「禁じられた遊び」その他を何回も練習したが
素質がないので、弾けるようになれませんでした。
最初に買ったレコードが橋幸夫の「恋をするなら」で
母親は、息子が急に不良少年になったと感じて
ショックを受けていました。
小学校の6年から中学にかけて、理科や科学が大好きで、
いつのまにかラジオを自作することに目覚め
ラジオ制作の部品を奄美大島から東京の秋葉原へ
よく注文していました。
現在のような宅配便も無い時代
注文した部品は、1ヶ月以上かかって届くのですが、
それが待ちどうしくて、
郵便が配達される時間帯に
何回も確認した記憶があります。
一月遅れで届く「初歩のラジオ」を読んでは
ラジオ製作のアイデアを絞る少年時代でした。
ラジオ製作の延長で、ソニー入社後
アマチュア無線に熱中したこともありました。
一戸建てのマイホームを手に入れると、
少年時代の夢だった、アマチュア無線用の鉄塔を建て、
下手な英語で海外との交信に夢中になった時もありました。
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